森の将軍塚の下には「古墳館」や「歴史館」という博物館があって、歴史公園のようになっています。これらの建物の下からは埋蔵文化財がたくさん出土されたようで、それらはここにムラがあったことを示しているようです。
で、この建物の上の土地にはこの「科野(しなの)のムラ」の様子を復元した住居群が建てられています。

竪穴式住居ですね。この中にはちゃんと生活の様子がわかるように炉が作ってあります。

高床式の住居もありました。発掘したものからこういう住居があったことがわかったんですね。
ところで、長野県の塩尻というところに平出遺跡(ひらいでいせき)というところがありまして、そこにも竪穴式住居が復元されています。ここの出土品の中にはたくさんの須恵器(すえき)があり、素焼きよりも高い温度で焼いたものであることがわかります。さらに、この高温による焼き物が存在していることは、露天の窯ではなく穴窯のような密閉された窯で高温で焼く技術があったことが証明されます。出土品のひとつに「緑釉水瓶」と言われる物があり、これは密閉された窯の中で焚いた薪の灰が器に降りかかり、それが溶けて緑色のガラスの釉薬になったのだということがわかります。
平出遺跡は奈良時代のものだと言われています。当時の「あをによし」奈良の都では銅という金属を使って大仏像を造り、さらにその上にアマルガム法を用いたであろうと言われる金で表面を覆うという技術があったわけですが、その同じ時代に信濃のクニでは竪穴式住居だったことを思えば、文化の伝播のスピードの遅さに驚くばかりです。今でこそ長野駅から東京駅まで新幹線を使えば最短75分(だったかな?)で行っちゃうんだけどね。
そうそう、焼き物の技術も朝鮮半島から連れてきた職人のおかげで日本に伝わったわけですよね。じゃあ、一瞬にして情報が伝わる現代ではどうでしょうか?作るということに関して言えば、いつの時代でもやっぱり人が介在しないと伝わらないものではないかな、と思ってしまいます。