お彼岸に入って何日か経ってしまいました。決してさぼっていたわけではありません(諸事情ってやつ)が、申し訳ない気持ちでお墓参りをしてきました。

さて、今日はこのタイトルで書こうと思ってたのですが、今になって怖じ気づいてます。なぜなら、お墓参りで思うことはたくさんあり過ぎて、かんたんにまとめられないとわかっているからです。先祖のこと、親戚のこと、近所のみなさんのこと、仏教のこと、人生のこと、死ぬことへの準備のこと、家族のこと、などなど。
一番最近にこのお墓に入ったのは父ですが、10年前になります。その父についても思うことはたくさんあり(思えばけっこう長い付き合いでしたね。)ますし、自分と照らし合わせることもしばしばですから一言では済まないですよね。

父の命日は3月3日ですから、先日供えた花がまだ二週間分だけ古くなった様子で残っていました。で、今日は辞書で「散文的」という言葉を調べました。ふっと「父も自分も散文的かな?」と思ったものですから。「深い感動がない」という意味ではなくて「まとまりがない」という表現に当てはまるかな?と。日頃韻文をたしなんでいる人は、その表現のしかたからも推察して、きっとまとめることを常に意識しているに違いないと思うわけですナ。それに対して我々散文的な人間は、、、と、思ったわけです。
散文的にまとまったかな?